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朝日新聞「ツギノジダイ」に取材をしていただきました。-年商10分の1から再生 「流行を追わない」アパレル商品の開発力 –

大醐:朝日新聞「ツギノジダイ」に取材をしていただきました。-年商10分の1から再生 「流行を追わない」アパレル商品の開発力 –

2024.06.27

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朝日新聞「ツギノジダイ」に株式会社大醐と代表の後藤のことを記事にしていただきました。

婦人服アパレルの時代から、紳士下着を企画販売していた時代を経て、
シルク雑貨にいたるまでを、丁寧に取材していただき、
歴史を振り返ることができました。

今回の取材記事では株式会社大醐の歩みがわかります。
ぜひご一読ください。

※聴き取り&編集していただきました陽菜ひよ子様ありがとうございました

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⇩記事はこちらから

https://smbiz.asahi.com/article/15313155
下記「ツギノジダイ」記事より引用

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年商10分の1から再生した大醐「流行を追わない」アパレル商品の開発力
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ボクサーパンツやステテコを開発

大醐は1981年、後藤さんの父・昌治さんがレディースアパレルメーカーとして創業しました。
順調に滑り出しましたが、バブル崩壊で業績が悪化。
最盛期の1994年に16億円あった年商が、後藤さんが入社した1997年には8億円に半減し、その後も下降しました。

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創業当時の両親(大醐提供)

2008年のリーマン・ショックで、年商は最盛期の10分の1以下の1億3千万円に。30人いた従業員は4人にまで減りました。
後藤さんは差別化のため、原料からの企画に踏み切り、ボクサーパンツやステテコといった「流行を追わない商品」へと戦略を転換します。

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シルクを使った商品群(大醐提供)

シルクや滋賀県伝統の高島ちぢみなど天然素材を使った商品で、幅広い顧客を獲得し、2020年代以降は年商6億円台に回復。
売り上げは最盛期に及ばないものの、利益率は上がっています。 社員数も34人まで増えました。

表参道進出も失敗に
後藤さんは学生のころから常に変化のある仕事がしたいと考えていました。家業を継ごうと決めてはいませんでしたが、同じアパレル関係を希望しました。

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大醐の商品の数々(大醐提供)

1993年に同志社大学を卒業し、就職したのがアパレル商社・タキヒヨー(名古屋市)です。当時は起業を視野に入れていました。

タキヒヨーでは服の生地用のテキスタイルを企画して、アパレル企業に販売する業務に従事しました。
「普通のアパレルは当社(大醐)のように生地を作るところからはやりません。前職で現場を目の当たりにして、やってみようと思えました」

タキヒヨーを3年で退職した後、1997年、大醐に入社しました。当時はベトナムでの起業を考えていましたが、結婚を契機に父から「会社を継がないか?」と聞かれ、承継を決めました。

入社後は倉庫での出荷や営業など、3年ほど基本を学びました。東京・表参道に事務所を構え、ブランドも立ち上げました。

月曜日だけ名古屋本社で、それ以外は表参道で働く生活を5年ほど続けましたが、業績はどんどん悪化しました。
「根本を変えないとうまくいかないと感じました。入社したときにあった小さいアパレルメーカーのほとんどは残っておらず、淘汰が進みました」

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後藤さんは東京進出に挑んだ時期もありました

「地の利」を生かして原点回帰

東京の中心でうまくいかなかったことで、原点回帰の発想が生まれました。
地方はバイヤーもいないため情報が遅く、流行に素早く対応できない弱点があります。
しかし、地元愛知県は繊維の産地に近く、「地の利」を生かした経営にシフトします。

それまでのアパレルの常識は「カッコいいものを早く売る」でした。
しかし流行の先端をいく商品は爆発的に売れても、翌年には流行遅れとなり、在庫が重荷になります。
高値で売れても翌年の価値はゼロになり、倒産する企業の多くは不良在庫で経営が立ち行かなくなっていたのです。

後藤さんは「流行のないものを作る」という結論にたどり着きます。
それは、「流行が遅い」という地方の弱点をカバーする手段でもありました。
デザインとマーケティングの力を磨くことで、差別化を図りました。

派手なボクサーパンツを雑貨店に

後藤さんが最初に目をつけたのが、ボクサーパンツです。
アパレル業界は展示会や買い付けで訪欧することが多く、派手なボクサーパンツをお土産にもらったのがきっかけでした。

当時、男性用下着はトランクスかブリーフが主流でした。しかし、若い男性はブリーフには抵抗があり、トランクスは細身のパンツの中ではかさばるという悩みがありました。

おしゃれでフィット感のあるボクサーパンツが悩みを解消するのでは、と考えた後藤さんは欧州を視察。
開発を決めて、2006年に発売を始めました。

ボクサーパンツでこだわったのが二つの点になります。

一つは高いストレッチ性です。通常のストレッチ素材よりも、ポリエステルの割合を増やし、スリムなパンツの下にはいてもかさばらず、フィット感があるボクサーパンツにしました。

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派手なデザインでフィット感のあるボクサーパンツ(大醐提供)

もう一つは販売場所です。欧州ではカラフルでおしゃれな下着が美しくディスプレーされていました。
元々、下着売り場以外での販売を想定していた後藤さんは、東急ハンズなどの雑貨店でカラフルなボクサーパンツを売り出しました。
「20年ほど前の日本人は、男性用下着におしゃれを求める意識は低かったと思います。派手なボクサーパンツはプレゼント向きだと考えました」
柄は、レディースの流行をキャッチする強みをいかしてデザインしました。
パンツは同じ素材で5~6色を展開。売り上げはそこまで伸びなかったものの、問い合わせが多く「間口が広がる手ごたえを得た」といいます。
サッカー好きの社員のアイデアでJリーグ・名古屋とのコラボが実現。アーティストのグッズや東京キー局の番組のノベルティーなどの依頼も舞い込みました。

勝負をかけて祖業から撤退

後藤さんは勝負をかけようと、2009年、祖業のレディースアパレルをやめることにしました。
在庫を半年くらいで売り切り、1年ほどかけて撤退しました。
一代で築いた事業の転換を、父から反発されなかったのでしょうか。
「特になかったですね。売り上げが一番落ちた時期で、父もレディースアパレルは難しいと感じていたようです」

「自分にはできないけど応援している」
父の言葉に後押しされ、後藤さんは新事業にアクセルを踏み込みます。

ステテコを人気商品に

猛暑が続いた2011年は震災後で節電意識も高まり、涼しい素材のルームウェアの開発を考えました。
調査の結果、接触冷感の生地も長く着ていると熱がこもることがわかりました。
市場調査を重ねる中で涼しいと感じたのが、綿100%で滋賀県伝統の高島ちぢみのステテコでした。

昭和初期には大流行したステテコも、2011年当時は「カッコ悪い」と敬遠されていました。
しかし、腹巻きやレギンス(股引)などは、すでに女性向けの商品が売れており、男性向けもおしゃれなデザインにすれば売れると考えたといいます。

そこで、さらに涼しいインドのパッチワーク生地のステテコを企画。
1カ月足らずで商品化したところ、瞬く間に人気商品になりました。

しかし、後藤さんはこのまま翌年をむかえれば、必ず同業他社に模倣されると危機感を抱きました。
通常の綿はストレッチ性がないため、動きづらいという意見に着目し、高島ちぢみ自体にストレッチ性を持たせた独自素材の開発を成功させます。

翌年、現代風の高島ちぢみのステテコを販売。さらに反響をよび、人気に火がつきました。

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高島ちぢみのステテコ(大醐提供)

カッコ悪いものをカッコよく

ボクサーパンツ、ステテコなどは5年ほど大醐の主力として販売。しかし、目新しかった商品も、大手に参入されて競争で負ける状態が続きました。
デザインはまねされやすいと感じた後藤さんは「簡単にはまねできない素材から作ろう」と決意します。

後藤さんが掲げたキーワードは「日本のものづくりを守る」、「カッコ悪いものをカッコよく作る」でした。
そこから、シルクの靴下や腹巻きなどを扱う「絹屋」、ステテコに用いた高島ちぢみを素材としたルームウェア「涼綿」といったブランドが生まれました。

「シルクは汗蒸れや冷えなどを防ぐ」とされていますが、一般的にはほとんど知られていませんでした。

健康をうたう商品は、真っ白で見た目が地味なものが多かったといいます。
後藤さんは「かわいいデザインでブランド化し、売り場を変えれば一般のお客さんにも支持される」と考えました。

冷え性の人がシルクの靴下を4枚履きしていることを知ると、4足分の靴下が全部見えるよう、かわいいパッケージに入れました。
自社デザイナーと箱メーカーが共同で考えたデザインは好評で、現在も使っています。

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絹屋のパッケージは販売開始時から変わりません(大醐提供)

ライトユーザーのために2足重ねの商品も用意し、ヒットにつなげました。

認知症の人向けの靴下が好評

2020年からのコロナ禍はそれほど影響はありませんでした。
ただ、以前のような「おしゃれな外出着」のメーカーのままなら、大打撃を受けたと後藤さんはいいます。
2022年には、認知症の人向けの靴下「Unicks 」(ユニークス)を販売しました。
開発のきっかけは、地域の高齢化問題について、名古屋市北区の職員と考える機会があったことでした。
認知症の症状の一つに、靴下が履きにくくなることが挙げられます。自分ではけないと外出の回数が減り、認知症がさらに進むため、大醐が課題解決に乗り出しました。
認知症の人も迷わず履けるよう、ユニークスはかかとがない筒状の形にしています。

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ユニークスはクッション性もあり、はき心地が好評です(大醐提供)

かかと部分を無くし、上下左右をまちがえても履けるようにしました。
クッション性の高い厚みで、フローリングの床などを歩いても疲れにくく、
パイル地に縫い目が埋もれて足に当たらないので、肌にも優しいといいます。

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パイル地に縫い目が埋もれて足に当たらないので、肌に優しいといいます(大醐提供)

認知症の人の目印にするため、はき口の色を変えたことも「かわいい」と好評です。
現在では一般ユーザーのほうが多く、若い人にも愛用者が増えています。
ユニークは2021年に発売。
初年度の販売数は約30足でしたが、着実に売り上げを伸ばし、2023年度には販売数約1500足、売上額は200万円を超えました。

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はき口の色を変えて目印にしています(大醐提供)

シルク不足打開へ桑畑を管理

昨今の円安で高騰したシルクの割合を下げた商品も開発しています。
ただ、その分、「涼しい」、「抗菌」といった付加価値をつける工夫もしています。

シルク不足を補うため、2024年、自社で桑畑を管理する「犬山かいこ~んプロジェクト」を立ち上げました。
愛知県犬山市にある元ブドウ畑の約7600平方メートルの土地を購入。自生する桑の葉でカイコを育てるというものです。
誰でも桑の木のオーナーになれる植樹会などを開催。高齢者の居場所づくりにも一役買っています。

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桑畑は地域住民に支えられています(大醐提供)

この夏には「カイコさん飼育セット」を販売し、
直営店では8月に子どものカイコ観察会を行います。

「桑畑はあまりもうかりませんが、国内工場や伝統産業を守るために国内生産に力を入れ、今後は桑の実ジャムなども販売したいです」

インド進出も見据えて

後藤さんはインバウンド向けの商品も考えています。日本とは洗濯機や乾燥機の仕様が異なり、より強度が求められるため、試行錯誤しているそうです。

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社員と打ち合わせをする後藤さん

後藤さんは店舗に立つ社員が接する顧客からの意見は、細かな点まですべての商品に反映させてきました。
2026年度の目標は、売り上げの1%未満である輸出の割合を、10%まで上げることです。
2030年にはインドに生産拠点を置き、20年後にはインドでの売り上げを全体の50%にすることが目標です。現在リサーチを進めています。

「20代の社員が50歳になっても伸びるマーケットで生きる会社を実現したい」。
そのためにも、桑畑の収益化、シルクのアップサイクル、工場や倉庫の整理やコストダウンなどで、国内外の売り上げアップを目指しています。